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推しと実在性

少し前に、平成ノブシコブシ徳井さんとインパルス板倉さんのトークライブに行った。
メモやライブレポを取っていないのでうろ覚えだけど、以下のようなことを言っていたと記憶している。

腐り芸人としての自分が求められることはあるが、あれはあくまで過去の側面である。
それは確かに撮影当時(或いは昔)の自分が抱いていた感想ではあるけれども、人間は多くを知って変わっていくので、当然今の自分が抱くだろう感想と同一ではない。
(まあ腐り芸人としての自分を表層に出すのも面白いんだけどね、とも)

相手は存在(実在)しており、生きているから日々変わっていく。
それはいい方にも、悪い方にも、善悪を抜きにして私のような一人のファンにとって違和感を覚える方向にも。
実在の人間を推すことの楽しさと、難しさが詰まった事実だと思った。

あのライブ以降、お笑いライブには行っていない。
他責にするつもりはないけれど、たぶん自分はこの言葉で、いわゆる"他界"した。

昔、お笑いライブに行っていたころに若手として紹介されていた人たちが、今テレビに出ている。
テレビに出ている人たちはライブで見た時よりもずっと「テレビの人」になっている(当たり前といえば当たり前なんだけど)。
出られなかった人たちももちろんいて、そういう人たちは(たまにライブ情報を見ることもあるけれど)ライブに行かなくなってしまった自分には何をしているのかわからない。
彼らは実在しているので、別に私が見ていなくたって変わっていく。

あのライブで彼らの言葉を聞いた時、自分はどこか推しに不変を望んでいたのだと気付いた。
ライブに出ている芸人にはずっとライブで活躍してほしかった。
腐り芸人にはずっと毒を吐いていてほしかった。
強烈なネガティブと不謹慎が笑いになる世界を見ていたかった。

でも当たり前だけどそうはならない。
生活苦を笑い話としてトークしてくれた芸人は、あれほど売れていれば楽しく暮らせるだろう。
非モテをネタにしていた芸人が週刊誌にすっぱ抜かれたりした後、結婚したニュースを見た。
悲しみが永遠に続かないように、笑いになっていたネガティブもずっと残り続けるものじゃない。
私自身、前職の苦しみが一生ものではなかったのだから。

昨年末ごろに某芸人についていけなくなった人のnoteがバズっていて、"信者商売"というものに乗っかったことのある自分には耳が痛い話だと感じた。
苦しみを癒してくれるのはネガティブな笑いだけだと信じていた。それは(彼らがそうしていたことではなく、私がそう信じていたことは)一種の宗教であると思う。
決して嫌いになったわけではなく、自分はもう「そこ」にいない、いるべきではないと感じただけだ。
近い言葉を探すなら、信仰が失われただけなのだろう。

私はすべてを嫌いになりきる前に、お笑いというものから少し離れた。
2023年末のM-1は本当に楽しかったから、信仰が失われたことで、呪縛のようなものもなくなったのだと思えた。

カリギュラ2を思い出す。
人間に人間の想いは重すぎる、という話。
変わっていくものを信仰することに、自分は向いていなかった。

芸人は、バラエティ番組は好きです。
ただ、推しではもうないです。
ライブにじゃぶじゃぶお金をつぎ込むことはもうないと思います。
(たま~に見たい芸人のライブを取るかも、くらい)

少し寂しいところもあるけれど、フラットに好きなものを見られる自分を取り戻せた気がして、私は嬉しいです。