空想孤独読本

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推しを神だと思うということ

愛と崇拝は同じものだと考えているので、基本的に推しと呼べる人間のことは「神」だと思っている。
向こうは神なので、民であるこちら側はチケットを買って金を奉納するし、直接見に行くことがあれば可能な限り身を清めるし、特に明確に人生に役に立つことはないが癒しをくれる。
けれど推しの炎上というものに触れるようになると、この「神」もまた違った意味を持ち始めるようになってきた。

神には天災の擬人化としての側面もある。
人間がいくら備えても、天災一つで吹いて飛ぶようにすべてが失われていく。
あれは神だから、神のしたことだから仕方ないという考え。
推しのやらかしもそれに似ている。
ファンの側がいくら何を備えたって、推しが一発やらかせばインターネットの海は燃え、希望も地に落ちる。
これはまごうことなき天災。天災の擬人化としての側面の、神。

私は推しに、ダブルミーニングでの神を見る。
後者の意味を持っていることを忘れないようにしないと、炎上するたびにメンタルがささくれ出す。
神と民の間には一線がある。気まぐれで天災は襲ってくるし、心構え以外私たちにはどうしようもない。
神は自分を救ってくれるという考えで足を止めてしまうと、そのまま底なし沼にはまり込んで死ぬ。
神と民とのあり方は常に探し続けなくてはならない。答えを求めて歩き続けることこそが、私と「神」との関係性だと思っている。


まあこういうことを書いているというのはつまり、やらかしが発生したんですがね。
諦めの悪い民なので、いつかネタが見たいなって気持ちだけで生きています。