空想孤独読本

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「さよなら絵梨」とクソ映画のこと

(※藤本タツキ先生の漫画「さよなら絵梨」に関する重大なネタバレがあります)

シャークネードをクソ映画と評してしまう人間のことが好きではない。
確かにトルネードに乗ってサメが飛んでくる、しかもそのサメたちは生きているしもちろん人間を食う、それに人間側はチェンソーで対抗、しかも続編ではメインキャラがサイボーグ化するし宇宙に飛ぶし時空も飛ばすし…というと非常に胡乱な内容だと思う。しかもCGは(少なくとも1作目は)チープと来ている。
でもそれは百歩譲ってB級と呼べるものではあっても、クソ映画ではないと思っているから。

クソ映画と称される作品でも、フランケンジョーズ(今は配給が変わってシャーケンシュタイン)のことは好きだ。
作中で博士がフランケンジョーズ(シャーケンシュタイン)をなぜ生み出したか語るシーン、彼は「怪物とジョーズなら最強だろ」と口にする。
正直、私はこれを見た瞬間すべてを許したというか、この映画のことが好きになった。
ありがちな、なぜ作るのか?なぜそれでなければならなかったのか?に、明確な答えが与えられた気がした。
彼がこちらに、「なぜ今までの人間たちはこれをしなかったのか、思い付きを生み出さないのか」と問いかけてきている気がした。
それはたとえとあるコピペのように、誰も思いつかなかったのではなく誰もやらなかったに過ぎないことだったとしても。
ただ、あの映画を見て時間を無駄にしたと罵倒する人の気持ちも分かる。自分も世間でクソ映画と言われていて、自分で見ても得るものが無かったと感じた映画があるので、たぶんその辺は掴んだものの差なのだろう。

 

閑話休題
藤本タツキ先生の「さよなら絵梨」、面白かった。

shonenjumpplus.com


ただ、作中に明確にクソ映画というワードが出てくるので、感想にもクソ映画というワードが引っ張られがちなのを散見して悲しくなった。
このうち何割の人間がまずB級映画とクソ映画を切り分けて、クソ映画と称される作品から何かを得たり、何も得なかった経験があるのだろうと思った。
いやまあ、クソ映画視聴なんて人生の無駄という意見には同意するし、あの漫画も全部が全部私みたいなののお気持ち表明を含めてうるせえバ~カ!の意味をした大爆発なのかもしれないけど。

「優太はどんなふうに人を思い出すか自分で決める力があるんだよ/それって実は凄い事なんだ」
「あの絵梨さ……ちょっと美化しすぎ/だけど……私これからもあの絵梨を思い出す/ありがとう」

「さよなら絵梨」は滅茶苦茶だ。
悲劇のヒロインのようだった母親は、自分をそうプロデュースしようと息子を使おうとしていた。
突然現れて振り回した絵梨は、綺麗に死んだように見えて美化されていたし、それに吸血鬼として再び現れた。
そして、そんな物語を締める爆発。
読み手は好き勝手に隙間を埋めることもできるし、意味の分からない話だったとふたを閉めることもできるし、そのままこの漫画を忘れることもできる。
ただ、上記の台詞はものすごく自分の中に刺さった。それは事実だし、他人から侵されない感想だ。
よく考えてみれば、創作物に抱く感想なんて最初からそんなものでよかったのだった。だれかがクソ映画とか、意味不明とか蔑んだ作品であっても、私の心に得るものがあったらそれは意味のある時間だ。
「さよなら絵梨」がクソ映画という言葉を引用して語られるだけになってしまうのを寂しいと思う私は、もし誰かがクソ映画(と世間から称されるもの)から得るものがあった時に、逆に「さよなら絵梨」が引用されると良いなと思う。
余談だけど実はフランケンジョーズも爆発オチだったりする。

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ぼやき:
最近(ずっとかも)、仕事のストレスが抜けない。
良いストレス発散法が思い付かず(強いて言うなら睡眠)、微妙にぼんやりしている。
このストレスも自分の能力のなさから来ていて、問題ひとつをヘルプに入った先輩が解決してくれたんだけど、残りのいくつかの問題もたぶん自分じゃ解決できないからこの先輩がどうにかしてくれないかなあ、といった諦めから来るやる気のなさがずっと尾を引いている。
元より何もかも分からない人間だけど、その中でも一切わからない部分まで丸投げされているのが辛い。
しかもこれで転職してから3年目突入という。かろうじて日本語が書けて読めるだけの無能。
通勤に使用していた自転車もなんか不調だし、私自身も常に眠くてだるいし(昨晩15時間くらい寝た。馬鹿?)、貯金はないし、これから私、どうなっちゃうの~~~!?